演題にありますように信濃デッサン館を昭和54年6月上田市の郊外に創設してちょうど30年になりました。現在は11名のスタッフがいますが、開館から2年くらいはすべて一人でやっていました。入口のわきにある事務所でずっと生活していましたから演題のとおりの美術館暮らしでした。
東京で生まれ、育った私が何故信州上田に美術館を作ったのかとよく聞かれますが、土地との出会い、人との出会いがあったからです。絵描きになりたかった高校生の17才8ヶ月のときにアルバイトの帰りによった書店で村山槐多の画集に魅せられてしまいました。15才のときから京の都に槐多ありといわれた天才でしたが、19才で肺結核を患い、22才5ヶ月でなくなりました。大正8年2月20日のことです。農民美術運動で有名な山本鼎がおじにあたり、その縁で信州に滞在し、多くの絵を描きました。私も槐多の絵を集めるためよく訪れ、信州の鎌倉と呼ばれる塩田平の独鈷山のふもとの前山寺周辺が気に入り、信濃デッサン館を開館しました。絵が好きで美術館を作る人はいません。銀行から資金を借りて開館して時は、NHKのニュースセンター9時に取り上げられ、地方個人美術館の夜明けとまで言われました。
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